研究モデルを決める場合、モデルの前提条件:Assumptionをどう設定するかが、大きな鍵となる。例えば、有る一定期間の人口が安定しているとみなすことや、産業連関分析なら経済構造はある期間変わらないと仮定することである。
前提条件を定める事によって、諸要素が複雑に重なり合った現実社会を意思決定できる範囲まで落とし込むことができる。
その反面、前提条件に縛られたモデルは、ある意味「虚構」である。
"Essentially, all models are wrong, but some are useful" by George E. P. Box (原則的に、すべてのモデルは間違っているが、その幾つかは使い物にはなる:意訳:伊波)
だからこそ、研究者はモデルの限界を常に把握しながら、できるかぎり現実社会に有益となりうる前提条件を求めて行くことが必要となる。
しかし、それは研究者に限ったことではない。日々の生活を円滑に行うためにも、私達は無意識のうちにいくつかの前提条件を定め、いわば個人的(または社会的)に生み出した虚構の中で意思決定を下している。
その中でも「明日が来る」とみなすことは、根源的な前提条件といえる。
例えば「明日が来るとみなす」ことで、今日の生活で多少嫌なことがあろうと「将来の投資」だと考えることができる。「若いうちの苦労は買ってでも...」という言葉も、この前提条件がなければ成り立たない。
「明日が来る」という前提条件を、確率の観点から捉え、より現実的な仮定だと断定することも可能ではあるが、運命まで確率の世界に閉じ込めることができるほど人間は強くない。
つまり「明日が来る」という前提条件で組み立てられた生き方(モデル)は「まちがっているが使い物にはなる」というレベルでしかない。
では、この前提条件が成り立たなくなった場合、人間はどのような生き方を選択するのであろうか。
漠然と思うのは、そこに宗教や哲学の存在価値があると思う。
例えば「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という言葉が、先週尋ねた「Sumurai」展で展示されていた。武士道は「明日が来る」という前提条件に立ったものではなく、「死」を前提条件として捉えている。その覚悟からくる悟りが、日本の美として今の時代においても生き残っている理由なのかもしれない。
キリスト教や仏教なら、いったいどのようにして「明日が来る」という前提条件を”壊すことが”できるか。逆に「明日が来る」という前提条件を真理に変えることで成り立っているのか。自然や宇宙に、すべてを網羅する前提条件が存在するのであろうか。
”信じる”ことができる答えに出会えるまで、探し続けていきたい。
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