すべての国民が英語(または他の言語)を習得することは、日本の社会で生きていく上では必ずしも必要ではありませんが、社会科授業を通して絶対に身につけないといけないことがあります。それは「真実は相対的なもの」だということ。
学校のテストとは違い社会は「ひとつの正しい答え」というものは存在しません。立場が変わればその解釈もまるで変わってきます。例えば、コロンブスは危険な航海を経て「アメリカ大陸を発見した英雄」だという立場は、アメリカ原住民からしたら「侵略者」という解釈に変わることもあります。
新聞を含むすべてのマスコミを信じないという人と、マスコミを盲目的に信じ込んでしまう人は同等に危うい。それはどちらの立場も「真実は相対的なもの」として捉えきれず、ニュースの背景にあるさまざまな利権を分析することをやめ、一種の思考停止状態にに落ち入る危険性があるからです。
以前、小学校の先生が「新聞を絶対信じてはいけないと常に生徒に言い聞かせている」と胸を張って(本当に自信満々だった)言った数分後に、別のトピックでは、自分の議論の正当性を示すために新聞記事を「胸を張って」引用するのをみた。これは特に例外なことではなく、日常的に見られることでもある。
社会科の先生が、高い語学力をもち、1つのニュースを「日本のマスコミはこういう風に報道したが、ヨーロッパではこう、中国では、アメリカでは....」などと、多面的に紹介し、答えではなく考え方を教えることができれば、どんなに有意義な授業だろうと思う。歴史の授業にしても、世界各国の教科書を較べて分析していけば、かなり面白いと思う。またはスカイプなどのインターネットのテレビ電話を利用して、諸外国の社会科の先生と合同で授業していくのも楽しそう。
こういった社会科の授業を数年も受けていれば、相対的な社会から自分の「暫定的」な答えをさぐる能力を自然に身につけていけるはずである。それだけでなく、世界中のニュースや文献から分析する先生の姿を見て「自分も英語(または他の言語)をやってみたいなぁ」と考える生徒が自然にでてくると思う。英語の先生の仕事は、その生徒の自然に生まれた好奇心をしっかりとサポートという位置づけが適切なカタチだと思う。
そんなことを現在の「温暖化問題(正確には気候変動)」と「原子力発電」の議論を読んでいて考えました。
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