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Aug 15, 2011

命どぅ宝

 
今日は、サンフランシスコの全米日系人歴史協会で1月から開催されていた展示会「命どぅ宝〜沖縄戦から学ぶ」の閉会式。同展示会は私が通っている三線クラブ「弦友会」の先生である米国人沖縄系3世のウェスリー・上運天氏が企画したもの。(関連記事:沖縄タイムス)。そのこともあり、今回の閉会式で私達「弦友会」も、三線のライブを行った。

実は、この展示会場に足を運んだのは今日が初めて。「なんだ、沖縄出身のくせに、このような大切なイベントを手伝わないで」と怒る方もいるでしょうが、展示場の近くまで別の用事で行く事はあっても、どうしてもそこに向かう気になれなかった。

20代の最初、「沖縄の基地問題のために自分ができることはなにか、」と友達と議論しては、それだけで何か大きなことを達成したような錯覚に酔いしれていた。基地問題だけでなく、沖縄の文化・経済を大上段に語っては、それだけで自分たちが他人が知っていない事実を”知っている”と勘違いしていた。

24歳の夏のある日、沖縄の文化のあり方について友達とビールを飲みながら”哲学的"に語っていると、窓の外からエイサー練習の音が聞こえた。三線に合わせて激しくたたく太鼓の音。酔いながら沖縄文化を語り続ける友達に相づちをつきながら「もし俺たちが今死んでも、沖縄は生きる。でもエイサーを練習している彼らがいなくなれば、沖縄の一部は確実に死んでしまう」とぼんやり考えた。とてもショックだった。沖縄の文化を支えているのは彼らで、それを語っている(ふりをしている)私は、何も生み出していないことを知ったから。自分がとてもアホらしく思えて、心の中で「やーめた」と叫んだ。

28歳で「持続可能な発展」という概念を知り、沖縄に対する自分なりのアプローチを持つことができた。自分の能力の限界を知れたことで、少しは具体的行動することができるようになれた気がしていた。

しかし今年の1月に、この「命どぅ宝〜沖縄戦から学ぶ」の展示会の広告を目にした時、20代の何もできなかった自分の感覚が甦り怖くなった。ごめんなさい。本当に正直に言えば、沖縄の戦争・基地問題に自分の人生が振り回されるのが嫌だった。自分はあの夏の日から何も成長していないのかもしれない、と思った

そんな中、6月にバークレー地方に引っ越し、偶然訪れたパーティで再会したウェスリー先生。そして始めた三線。実はその時も少し怖さがあった。沖縄に触れることに。マブヤー(魂)は小踊りしているのに、心は萎縮していた。でも、純粋に沖縄の音楽を楽しむだけなのだと、自分に言い聞かせ、今回はマブヤーにまかせて”流されて”みることにした。

そして今回の「命どぅ宝〜沖縄戦から学ぶ」での閉会式である。三線を演奏する、という連絡メールを読みながら、これからどのような人生を選んでも、たとえどのドアをあけても、沖縄から”逃げる”ことはできないんだろうなぁ、と不思議なくらい冷静に受け止めている自分に気づいた。

展示場には、小学校の頃に沖縄戦学習で毎年のように観た写真が並んでいた。それはまさしく沖縄だった。歴史の防波堤として歪められた沖縄の姿だった。かなしくなった。でも今なら向き合えるとも思った。今の俺には、三線がある。鉄の暴風を乗り越え、こうしてむくむくと生き続ける骨太の沖縄の文化の中に守られている。

ライブ演奏が始まる。曲目は「てぃんさぐぬ花」「童神」「島唄」
工工四(三線の楽譜)を頼りに、他のメンバーの演奏をたどたどしく追いかける。あの日、エイサー練習を頑張っていた”彼ら”に少しずつ近づいている感じがして、うれしくなった。

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