バークレー大学(Greek Theatre)で行われたダライラマ14世のレクチャーに参加。屋外の会場で、7000人規模。(写真:バークレー大学ホームページより)
レクチャーのタイトルは"Peace through Compassion(慈悲による平和)
”Compassionを「思いやり」と訳することもある。前回のノーガード教授のテーマとの繋がりを感じた。
会場前では、中国人学生が、ダライラマ反対のビラを配りながら、何人かのチベットサポーターと激しく口論していた。
私のチケットは芝生席でしたが、円形型でしかも斜面がうまくとられたGreek Theatreの構造のおかげで、ダライラマがしっかりと見える位置。
ダライラマが入場した時の、圧倒的の存在感、そして会場の熱狂はすごい物があった。アジアからのスピーカーでアメリカまたは西洋社会にこれほどまでの存在感をしめすことができる人物は、数えるくらいしかいないと思う。
ダライラマは、慈悲の心を様々な例やたとえ話、そして独特のユーモアでやさしく説明してくれた。
途中アラブ系の生徒が2〜3人面白くなさそうに、レクチャーの途中ででていった。ダライラマは、自分は神ではなく一僧侶であるという立場をとり、また仏の言葉を借りるわけでもなく、どのように「人は幸せに近づけるか」という、より道徳的な話を中心としていたが、このことが、もしかしたら彼らには刺激的ではなかったのかもしれない。
今回はできるだけ、頭で考えるのではなく、自分がどのように感じるのかを確認するように、ダライラマの言葉に耳を傾けた。ダライラマの英語は、時折聞きにくい箇所もあったが、声のトーンや抑揚自体にメーセージ性を強く感じた。
これまで慈悲と聞くと、何か道徳に「縛られる」イメージがあったのですが、慈悲のこころが持つ温かさ・躍動感をダライラマの言葉から体験することができた。
レクチャーの最後に、ダライラマがバークレー大学の帽子をかぶり笑顔で両手を会わせて観客にお辞儀する姿と、それを観て心の底からうれしそうに顔をしている観客をみて、笑い(幸せ)を共有することがすでに慈悲の世界を体験していることなのだと思った。
「イエスの山上の垂訓を聞いて帰路につく人々の笑顔も、これと同じような感じだったかもな」と、会場を後にする観客を観ながら、ぼんやりと考えた。
その後2時間程、気持ちを落ち着けるためにバークレー大学のキャンバスをぶらぶら。
いつもなら思いつくことを、ノートに書き留めながら歩くのですが、今日心が感じたものは、今後形となって自然に表れるという根拠のない確信があったので、浮かんでは消え浮かんでは消える様々な思いを、シャボン玉を飛ばすように楽しみながら歩く。亡くなった母の顔も浮かぶ。
夕食を食べるために行きつけの韓国料理店に向かう途中のTelegraph通りで、黒人至上主義のキリスト教徒3人と、白人の数名、そしておもしろおかしく見守る野次馬の人だかりがあった。黒人のキリスト教徒の人は「白人は悪の根源だ」と聖書の言葉を引用しながら叫び、それに対して白人のキリスト教徒(らしい)人が「差別主義者め!」と顔を真っ赤にしながらやりかえす。野次馬のほとんどは白人で、黒人至上主義者の言葉に、怒りをあらわにしていた。
ダライラマから感じた、まるでこたつにはいりながら家族で談笑しているような「温かさ」の余韻は、そこで終わった。
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