よくチェックするブログ「環境政策留学記@UCバークレ-」に、こんな記事が。
『日本の大学では、わからないことは自分で調べるのが基本だった。(さらに言えば、僕の前職でもそうだった。)バークレーでは、違う。少なくとも今までの僕の経験上は違う。どんなに単純な質問でも、学生たちは臆せずに質問するし、教授もきちんとそれにこたえる。言うまでもないが、バークレーは世界のトップレベルの研究機関であり、そこのPh.Dの学生と教授とのやりとりだって、そうなのだ。』環境政策留学記@UCバークレ
加速するグローバリゼーション、情報通信の発展、異なった学問分野にまたがる研究プロジェクト等、このような社会でもっとも大切なキーワードは、「質問力/疑問を持つ力」ではないかと思う。
そもそも、私たちは答えのない世界で生きている。それは、社会が絶えず変化しているからだ。特に今日の社会では変化のスピードがさらに加速している。アルビン・トフラー氏の言葉を借りるならば未来への衝撃:Future shock の時代にいる。
そのような社会では、ひとつの答えにしがみつくよりも、「質問」を通してグループ内で暫定的な「答え」を見いだし、その答えを「育てていく」ことに、重点をおくべきではないか。
個人的には、組織(教育機関・職場)が、この時代をサバイバルできるかどうかを測るバロメーターは「自由に質問をする環境が、組織(教室・職場)に存在するかどうか」だと常に考えている。
自分の知っている限り、アメリカのトップ校を卒業している人は、とにかく「質問」がうまい。どんなささいなことでも、「そんなことまで・・」と思うような単純なことでも臆せず堂々と質問する。ひとつ付け加えると、答えがみつかるまで「質問」を続ける。
日本なら、授業中(または会社)に疑問を持った場合は、簡単に質問をするのではなく、自分で答えを調べる事が本当の勉強だ、と考える風潮があった。
それはある意味正しいことかもしれないが、そのことによって「学び」の範囲を限定し、創造性を狭める事になるのではないか。
授業が終わり、教科書や参考書で調べて「一人」で疑問を解くよりも、授業中に「質問」を共有し他の生徒や先生から学び、そしてさらなる次元の「疑問」へと発展させていく方がよっぽどいい。
こういうプロセスで得た知識は、躍動感があり生きている。
疑問を持ち質問を繰り返す事は、人間の自然な欲求であることは3〜4歳の子供をみればわかる。
「疑問」が「個性」をつくりだす。
「質問」をすることが、つまり自然な状態だといえる。
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