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May 13, 2012

そろそろ三線の「音」を、自由にしてあげていいのではないか


先月からアパートの近くにあるジャズスクールで「音楽理論入門」のクラスを受講。 クラスは毎週水曜日の夜8時から9時半。 生徒は私を合わせて4人。楽譜の読み方を習いながら、それが実際のどの「音(または無音)」と関係しているかを教えてくれます。理論と書くと小難しい感じがしますが、ここはアメリカ。まるでゲームでもしているような感じでクラスが進んでいく。

例えば「メジャーコード」のつくり方の理論をならって、それをみんなでピアノでジャーんと弾くと、いきなりScott先生がトランペットで即興でメロディーをいれたり。あと、前のカレッジでも思ったことですが、授業の進め方が「数学」的なんですよね。「1+1は2。2+2は4」なんだぁ、とぽんぽん土台を作って建築物を積み上げていくような感じ。つまり「エンターテイメントと数学がまざったような」クラス。(意味わかるかな?)

ここからが本題です。 

前から思っていたことですが、今回こうしてジャズスクールで「五線譜の読み方」を学んでいるうちにより強く感じたこと。

これを書くとちょっと「ムッ」と来る方もいると思いますが、あえて書くと、それは 「工工四が三線の可能性を狭めてしまったのではないか」、ということ。 

「工工四」とは、沖縄の三線のための楽譜のことで、漢字で弦の抑える場所を示したもの。 五線譜がメロディを「視覚」で表しているのに対し、伴奏と唄のメロディが工工四からはまったく「見えない」 リズムや、音の強弱など、情報量が五線譜に比べて圧倒的に少ない。 

三線は文化だ。それは「工工四」も含めての文化で、それはこれからも保存しなければいけない、 と主張するかたもいらっしゃるでしょう。 

でも、三線の(唄を含めた)「音」が主役であり、工工四はあくまでもその音を表記するツールで文化の本質ではない。 ツールはできるだけわかりやすく、多くの人に伝わるもので、かつ応用が利くものがいい。 そして今の時代ならば世界の人がわかるものでなければいけない。 

工工四が入ってきたときも、そうだったと思うのです。「これは便利なツールだ」という形で導入させた。 しかしそのツールを、「文化の保存」という名のもとに固定し、「進化」をとめてしまった。 

文化とは保存するものではなく、生きているもの。 三線の音は間違いなく「生きている」。そして世界に広がる「魂」をもっている。成長し続けている。最終系の文化なんてない。 それを「工工四」という窮屈な箱に収めて保存する必要はないのでは。 

本来、あるべき姿を取り戻すだけの話だと思う。

三線の主役は「音」であり、その音が文化をつくり、そして沖縄の生活に溶け込んだ。 そして、その「音」が、海を渡り世界に飛び立とうとしている。 何十年も前から飛べるはずだった。しかし「三線の音」は、工工四という小さな「鳥かご」の中に閉じ込められてきた。

そろそろ三線の「音」を、自由にしてあげていいのではないか、と思う。
そうすれば三線が世界文化の一部になる。

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例えば左のように「五線譜工工四」にすることで、情報量が増えるだけでなく、その情報を視覚を通して簡単に理解できる。それだけで海外の方も、たとえ一度も「かぎやで風」を聞いたことがなくても、そのメロディと伴奏がすぐにわかる。上の工工四ではそれができない。

参考:RUON社ホームページ

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